wall-hand 第六回個展
『脳内劇「鍵少女」』
[展覧会ステートメント]
本展は、「イラストと絵画の展示」であり、「現代美術の展示」であり、そして「脳内劇」である。
脳内劇とは何か。一言で表すならば、「鑑賞者の脳内において展開される演劇」である。
もう少し詳しく書くと、作品や展示空間を通して、鑑賞者の脳内に「存在しない筈の記憶」「物理的世界とは矛盾する知覚」「意思とは相反する感情」、そういったものを生じさせる何ものか(例えば芸術)である。
だが考えてみれば、我々の脳は常日頃から、外部からのあらゆる刺激を受け取り、それを処理して表象(イメージ)を作り出し、それをもとに意識上に知覚や感情を生み出し、そして記憶している。
ならば、そもそも人間の意識とは、全て脳内劇だと言えるのではないだろうか? わざわざそんなものを「脳内劇」などと銘打って提示する必要など、どこにあるのだろうか? そう問われそうだ。
確かにそうかもしれない。しかしながら、本展をあえて「脳内劇」だと強調するのには、理由がある。それを以下に記そう。そのためにはまず、現代がいかなる時代であるのか、それを確認する必要がある。
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現代の我々をとりまく環境、その重要なポイントとしては、「情報が過剰」であり、「それに人間の脳が適応できていない」ことが挙げられる。
膨大な量の情報が絶えず次々と流し込まれるにもかかわらず、しかし脳がそれらを消化しきることが出来ないのだ。人間の脳が一度に処理することのできる情報の量は、7項目前後だとされているが、そんなものはスマートフォンでtwitterのアプリを開けば、一瞬で限界が来てしまうだろう。
このような世界では、目の前にある情報、その一つ一つに対して、その真偽を判断し、出処を探り、そして自らの意見を個別に出していくことなど、不可能だ。
我々は、ヒューリスティックな思考に頼って生きていくしか無い。しかしそれが、さらなる無知や曲解を産み出し、デマや偏見を育ててしまう。この悪循環からは抜け出せそうに無い。
残念ながら、これは個人の知能やスキルといった問題なのではない。五万年も前からさほど進化していないとされる人間の脳、その限界と言うほか無いのだ。
現代においては芸術もまた、「自由に見ればよい」「知識などむしろ邪魔」といった耳触りの良い言葉と共に、無知と短絡的思考を肯定してくれるツールになりつつある。それが現代に最も適する、進化した芸術の姿であるというのなら、何も問題はない。しかしそれは、これまで人類が築いてきた文化や歴史の喪失に他ならないのではないか。芸術を失ったとき、人間はどうなるのだろう? 少なくとも、今よりもマシな未来が訪れるとは到底思えない。
こうして我々には、極めて困難な課題が突きつけられることになる。脳それ自体の問題により、芸術の機能が失われようとしているこの世界において、それでも何らかの方法で芸術をやらなければならないのだ。無論、その芸術を享受するのもまた脳である。では、どうすればよいのだろうか?
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ここで、「脳内劇」なる考え方が出てくる。
演劇において観客とは、演劇作品をただ鑑賞するだけの存在なのではない。作品を鑑賞している自らの存在を、一歩引いたメタ的な視点から認知することが出来る、いわば「観客の役を演じている役者」なのだ。
同じことが脳内劇にも当てはまる。作品を知覚し、何らかの感情が生まれる中で、同時に「私はいまこのような心の状態である」と認知すること、脳内劇では常にそれを鑑賞者に求める。
こうした視点の多重性、自我や知覚や感情の解離を体験することにより、鑑賞者は自らの意識が、固定観念の奈落へと落ちようとするのを踏みとどまることが可能となるわけだ。
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さて、この『鍵少女』とタイトルのついた今回の脳内劇は、一体どんなものなのか。
その具体的なプロットをここで記すことは出来ないが、一つの大きな要素を最後に書いておこう。
本展の後半において、生野忌実(せいの・いみ)という名の少女が登場する。
彼女はもともと、かつて私がネットに上げた漫画の登場キャラクターだったのだが、この脳内劇において彼女は、極めて重要な役を演じる。彼女と鑑賞者が、いかなる関係にあるのか。それを認識したとき、この脳内劇が目指したものが何であったのかが理解できるだろう。
長々と書いてしまったが、お楽しみ頂ければ幸いである。
(wall-hand)